新型コロナウイルスにたち向かう「戦いと共存」

写真左はフィンランドで最年少34歳の サンナ・マリン首相、連立政権の5党首はすべて女性
写真右はニュージーランド現在39歳のジャシンダ・アーダーン首相、初めて産休をとった首相


生命の誕生は40億年前と云われます。人類の出現が30万年前とすれば、生命の歴史40億年から位置づけすると人類の歴史は、一万分の一にも及びません。どう考えてもこれだけの期間でこの複雑な生命体が進化するとは考えにくいことです。

初期は、単細胞微生物が長い歴史のなかで進化し、しかもそれは海中の藻や地上の植物との共存関係の中で進化し続け、やがて多細胞生物との共生関係の中で急速に進化したのです。しかもその進化は人類(宿主)、この複雑な生命体との共生の中で宿主自体の神経系・脳とのコミュニケーションと云う高度な機能で宿主自体の進化を応援したのです。

当時の細菌の中には酸素を利用してエネルギーを作り出すものがいました。原始真核生物のあるものはそのような細菌を体の中に取り込み,共生することにより酸素を利用できるように進化しました。それにより,それまで毒物であった酸素を利用して大きなエネルギー(酸素を使わない場合に比べて約20倍)を獲得する能力を身に付けたのです。また,光合成を行う細菌と合体し共生するようになったものも出てきました。このような進化は多くの試行錯誤の中から偶然生存に都合のよいものがでてきたと考えられています。(以上はこのサイトの過去の投稿より)

つまり寄生微生物は宿主に対し、時には不利益を及ぼし、時には共生し宿主のためになり、この関係が長く続く中で淘汰され宿主にとって有利な寄生が生き残ってきたのです。

宿主と寄生微生物の戦いは、ウイルスの世界では微生物の域を超え非生物との境界に近づき、形をを変え、寄生がより巧妙になり、宿主の免疫の壁を突破する力を獲得するに至ったと考えられます。これに対し宿主はより免疫力を高めて対抗したのです。ウイルスはその免疫力を逆手に取って攻撃する手段(サイトカインストーム)を更に獲得したのです。

注)ウイルスとは?
 約100年の間,科学の世界ではウイルスの正体についての見解が何度も変わってきた。ウイルスはまず毒素と考えられた。次に,ある種の生物と見られ,それから生物学的化合物とされ,今日では生物と無生物の境界領域に存在するものと考えられている。ウイルスは単独では自己複製できないが,生きている細胞の中では複製でき,宿主となった生物の行動にも大きな影響をおよぼす。
しかし、ウイルスの位置づけは非常に重要だと考える。なぜなら,どのように科学者がこの問題をとらえるかによって,進化のメカニズムについての考え方が変わってくるからだ。

(以上日経サイエンスより)

ウイルスは、細菌の50分の1程度の大きさで、とても小さく、自分で細胞を持ちません。ウイルスには細胞がないので、他の細胞に入り込んで生きていきます。ヒトの体にウイルスが侵入すると、ヒトの細胞の中に入って自分のコピーを作らせ、細胞が破裂してたくさんのウイルスが飛び出し、ほかの細胞に入りこみます。このようにして、ウイルスは増殖していきます。従ってウイルスと人との関係は寄生生物と宿主の関係と考えられます。人の立場から見れば時には戦うべき相手でもあり、また状況によっては共生する相手でもあるのです。

J・Z・Youngから学んだ断片

■ 生の営みの重要な特徴は、可能性のレパートリーに中からの「選択」によって生存を目指した活動を行いうる能力にある。バクテリアは可能性の小さなセットの中から生存を目指した選択をし、人間は可能性の高次元で多様なセットから選択している。

■ 探索・目的・選択・決定が生命を支えるシステムに組み込まれている。選択し決定し行動する能力はすべての生物に共通の特徴である。

■ 生を営む存在は生存に方向付けられた活動を行っている。目的追求は明らかに「生物学的機構の本姓であり、客観的なシステム特性である」。


現代の科学で対応すれば、案外「化け物の正体見たり枯れ尾花」と云う結果になるかもしれません。この句は江戸時代の俳人横井也有の俳文集『鶉衣』にある俳文です。「虚飾を剥ぎとった簡潔なフォルムの群落を表現した」とも解釈されています。
ウイルスは生物か非生物かと云う哲学論議はここではなしにして、相手を知らずして戦うことも共生することもできないと云う観点に立ちましょう。つまり、コロナに対する戦いも共生もコロナの正体を見届ける手段と云うことになります。

新型コロナウイルスの脅威については如何に手ごわい相手であるかを最近の投稿で訴えてきました。まだ結論を出す段階ではありませんが、今まで学んだ結果から云えば、戦いと共存(共生ではない)が現在におけるベターな対応策です。
共存は「必然的にそうなる」だけでなく以下の世界各国の対応の仕方から判断すれば、「共存」自体が人類が求めるべき政策上のターゲットだと考えられます。

ところでいま世界の国々のコロナに対する姿勢はどうなっているのでしょう。
私は次の3パターンに分類してみました。

Aグループ:疑似自由主義(新自由主義)
Bグループ:全体主義
Cグループ:ナチュラル自由主義

Aグループは日米と欧の一部の国々で、コロナ以前からバブルとバブル崩壊の要因を抱えていた国々です。コロナ危機で格差問題が浮き彫りとなり、例えば米国はコロナ対策の副作用で失業率が14.7%(世界大戦以来の最高値)に及び、当然の結果として消費の極端な落ち込みで企業倒産の激増を招いております。やむを得ず都市封鎖を強化したり緩めたりを繰り返さざるを得なくなっているのです。このグループは感染者数を抑えることが困難となりコロナ危機と経済危機の二律背反を抱え込む結果となります。危機脱出まで最も時日を要し、一説では最短2年かかると云われております。

Bグループは云うまでもなく中国です。中国は武漢の徹底したロックダウンを出発点とし中国全土では健康コードシステムを導入、私権の制限をものともせず集団感染を封じ込んでおります。たただしこの成功は大きなハードルを抱えております。鎖国状態を続けなければならないからです。この事は、経済的には好ましくありませんが、華僑ネットワークを擁していることと広大な国土と13億の人口の莫大な消費市場があると云う突破口が想定以上に有効に働くかもしれません。

独裁や権威主義の体制が多い一帯一路の諸国は、中国から健康コードシステムをそっくり輸入して自国に導入し、比較的短期間に一時収束が実現する可能性があります。コロナによる一帯一路の遅延は意外と少ないかもしれない。中央アジアや中東諸国が、意外にもコロナ先進諸国になっていく可能性があるのです。

Cグループはスエーデンなどヨーロッパの一部とニュージーランドなどです。

田中宇氏は国際ニュース解説の中で次のように述べております。
コロナに対する「仮の勝利」の維持のために「理想的(!)」なのは、前回の記事で紹介した「中国式」の中心に位置する健康コードシステムだ。人々の行動を徹底監視・管理する、リベラル的な「理想」から最も遠い中国式が最も理想的だというオーウェル1984的な倒錯の世界が、コロナ後の人類の新常態・ニューノーマルだ。コロナ新世界秩序のもとでは、中国が世界で最も先進的な国であり、リベラルとか人権とかコロナ以前の「時代遅れの価値観」にこだわっている以前の先進諸国(米欧日)は、新常態への移行が遅れている「後進国」「発展途上国」だ。この点でも、新常態はオーウェリアンで倒錯的だ。 (中国式とスウェーデン式) (都市閉鎖 vs 集団免疫)

国際ニュース解説より

スエーデンとニュージーランドは両国とも女性首相で、国民からの信頼が厚く初期の厳しい封鎖的対応もうまくいき、その後健康コードによる追跡も国民の理解のもと中国のような強権的手法でなく、自由主義の体制の中で推進できたのです。
一時は、集団免疫は人権無視だとして猛反発を受けたものの「ナチュラル自由主義」は見事にその批判をはねのけたのです。集団免疫は手段ではなく求める結果の中から生まれつつある副産物と云っても間違いではないでしょう。

現に両国とも、近隣国を巻き込んで健康コードによる規制緩和を進め、鎖国状態を解く努力をすすめております。これが成功すれば中国や米日より優れたやり方となるでしょう。欧州各国はBグループに加わっていくか可能性が高まっていきます。これには国際資本の跋扈の制限や新自由主義の格差是正などが必須です。コロナは世界を変えるかもしれません。(「ナチュラル自由主義」は私の造語ですが、コロナが変える世界の変革を考えた結果です)

韓国・台湾・香港などは早期にロックダウンを徹底し小康状態となっています。アジアの国がどのグループに属するかは先を見ないとはっきりしたことは言えませんが、条件によってはCグループの候補となる可能性があるかもしれません。あるいは3グループとは異なった路線を歩み成功するかもしれません。

これら世界の各国の対応はいろいろですが、総じて云えることはコロナとの共存無くして人類はこの危機を乗り超えることは不可能です。集団免疫は非人道的と批判される場面もありましたが、スエーデンのように、図らずも初期から集団免疫を目指す政策をとった国は、検査体制の強化を早い時期から行い、医療崩壊を防ぎ結果的に国民一人一人の命を守る努力をしました。これこそが新型コロナウイルスとの共存だったのです。国のリーダーが国民から信頼されているから出来得た政策でしょう。


最後に日本について述べます

日本はこのオリンピックのためか、全く検査を軽視し世界の動きに逆行する政策をとって来たのです。残念ながらコロナ対策が長引く恐れが強いのです。しかし、ここに来てノーベル賞受賞者の山中伸弥教授や本庶祐教授らが声をあげ、日本のPCR検査が異常に少ないこと、これがすべての禍となり感染者数の実態がつかめず医療崩壊を招くこと、科学的対応が遅れること、などを指摘されました。

こうして各方面の識者から警笛を鳴らされたことで、二か月も前から指摘されていながらまともな対応ができなかった政府・厚生労動省・専門家会議が動かざるを得なくなり、重い腰を上げ始めたのです。云うまでもなく目詰まりの遠因となっていた諸問題(機材の能力、人員の確保、感染者の隔離設備、体制の整備)は議論が煮詰まり解決策が示されております。あとは、予算措置や必要に応じた法令等手順の整備などが整えばうまくいく筈ですが、当局の後ろ向き姿勢が抜本的になおるかどうかです。

私が一番危惧することは、検査を制限した偽りの数値で感染者数が減っているため、それを根拠に県別に緩和策をとった場合、緩和された地域は当然検査の数が減ってきます。それを逆手に取って「国民からの検査の要求が少なかったので検査数が減ったのだ」と云って検査抑制の理由にもっていくことです。これを許せば検査数は依然として伸びず、実態がわからないまま恣意的な政策に振り回されてしまうのです。

今までの自粛で明らかとなった日本人の律義さがようやく生かされ光が見えてきたところです。推進役の後ろ向き姿勢が二度と現れないよう厳しい目を向け監視していく必要があることは云うまでもありません。これ以上当局がサボタージュすれば、正しいデータに基づいた出口が見えなくなり対策が長引きます。対策が長引けば倒産・失業が多発し、補償が足らなくなり、さすが日本人の長所も殺されえてしまうでしょう。自粛の頑張りには限度があることを指導者は銘記するべきです。指導者が日本人の長所の上ににあぐらをかく事を許してはなりません。

日本の指導者が誤りを素直に認め本気で政策転換をすれば、間違いなくAグループから脱却し、B・Cグループより優れた対策結果を獲得できるのです。日本人の律義さは他国にはまねできない利点です。これを無駄にすることなく前進することを祈るのみです。

本日、東京大学先端技術研究所の児玉教授が新型コロナウイルスの恐るべき本質を語る動画を入手しましたので、追加で速報いたします。「戦いと共存」は長期戦になると理解を改めざるを得ない内容です。

来週は経済危機に焦点を当てて発表する予定です。